photo01畿央大学高校生エッセイコンテストは、本学のキーワードであり、私たち一人ひとり、そして日本の将来にとって大きな意味を持つ「健康」と「教育」について、未来を担う高校生のみなさんに考えるきっかけとなってほしいとの思いを込めて開催しています。第7回となる今回は「いのち」「子ども」「衣・食・住」「自由テーマ」の4つの分野で全国から2334点の応募をいただきました。多数のご応募、誠にありがとうございました。審査の結果、入賞14作品と学校特別賞4校が決定しました。  

入賞者発表

タイトル 受賞者 高校名
最優秀賞 私の日記 山田 彩佳さん 兵庫県・雲雀丘学園高等学校3年
優秀賞 パジャマとユニホーム 門栗 優香さん 兵庫県立柏原高等学校3年
優秀賞 祖母の願い 上岡 彩乃さん 横浜市立ろう特別支援学校高等部3年
優秀賞 笑顔のススメ 櫻井 薫さん 神戸市立葺合高等学校2年
優秀賞 子どもが学ぶべきこと 白石 彩さん 大阪府立千里高等学校3年
優秀賞 「命」から学んだこと 山田 綾香さん 大阪府立富田林高等学校2年
佳作 味噌汁と母 池本 早希さん 静岡県立気賀高等学校3年
佳作 二つの毛玉 一條 香澄さん 宮城県・古川学園高等学校2年
佳作 手の温もり 今西 杏奈さん 奈良県・橿原学院高等学校3年
佳作 夢をあきらめるな! 末村 千夏さん 富山県立富山いずみ高等学校2年
佳作 「学校」の存在 仲田 美咲さん 京都府立鳥羽高等学校3年
佳作 いのちが語る 原野 瑞希さん 京都府立嵯峨野高等学校1年
佳作 私には死ぬ権利まだないな… 堀野 彩湖さん 京都府・京都産業大学附属高等学校3年
佳作 私への素敵なプレゼント 山﨑 菜摘さん 京都府立鳥羽高等学校3年

(優秀賞・佳作は五十音順)

学校特別賞

●京都府立嵯峨野高等学校 ●大阪府立千里高等学校  ●京都府立鳥羽高等学校 ●兵庫県立御影高等学校 1次・2次審査を通過した作品が多かった学校を選出しました(五十音順)  

最優秀賞

「私の日記」

山田 彩佳さん(兵庫県・雲雀丘学園高等学校3年)

「今日からこのノートに、日記を書いてきてください。」 小学校の最終学年の担任の先生が、初めての終礼で言った言葉です。「何でもいいから書いておいで」と言われましたが、生まれて初めての「日記」というものに、戸惑いを感じました。中学受験を控えていた私は、面倒くさいと思いつつ当り障りのないように「新しいクラスは仲の良い友達と一緒で嬉しいです。今日は楽しかったです」と書きました。返ってきた日記には力強い赤鉛筆でコメントが書いてありました。「明日は今日より楽しくなるように、がんばりますね」と。 先生からのコメントに心を動かされた私は、他愛のないことを感じたままに書きました。 おやつがおいしかったこと。「いいねぇ、僕も食べたいです」。友達と市民プールに行ったこと。「暑いものねぇ、うらやましい」。ピアノが上手に弾けなかったこと。「練習しているんでしょ?だったら大丈夫」。 楽しい時はあっという間に過ぎていき小さな日記が半分を過ぎた、ある秋の日の終礼。暗い顔をした校長先生の口から、最近休みがちだった先生が亡くなったと聞かされました。過労死でした。初めて「死」というものを体感しました。初めて真剣に自分の「命」を考えました。寂しさを感じ、どんな励ましも無意味になった私に、輝く未来を指し示してくれたのは、ある日の日記に書かれていた、先生のコメントでした。「別れの後には、出会いがあるよ」 3年の時が過ぎ、高校一年生になった私は日記を再開しました。やはり、赤鉛筆のない日記は寂しい。けれども、別れの後にあったたくさんの出会いの思い出は、読み返すたびに心が温まります。今の私は「日記」とはただの過去を記した紙ではなく、「今日を生きた証」をさすのだと考えています。先生が教えてくれた「命の証の記し方」は、私の宝です。   【講評】 『私の日記』と題する本エッセイは、たんたんとした記述ながらも、日記を通しての生徒と教師の心の交流、生徒の内面的成長、そしてその教師の突然の死の悲しみを乗り越えて「命の証」としての日記の再開という、小説やドラマのような仕立てと展開をもつ作品となっている。日記を書くことに気乗りのしない「私」に、日記を書くことの楽しみを教えてくれた小学6年のときの担任の「先生」。その描写から「私」が次第に自分自身の内面に目を向け始めた様子がうかがえる。ところが「先生」の突然の死。その衝撃で無気力になり日記からも離れる。だが「別れの後には、出会いがあるよ」という「先生」のかつてのコメントに救われ、高校入学後に日記を再開。そこには未来を見つめる一段と大きくなった「私」の姿がある。その今の「私」に、命を賭して命の大切さ、人の生き方を示してくれた「先生」の切なく感動的な姿が重なる。だから「私」にとって日記はただの日記ではなく、「命の証」であり、「私の宝」なのである。日記のもつ不思議な力に感銘を覚えるとともに、悲しい出来事を糧として強く生きるであろう筆者の姿に思わず喝采を送りたくなる、そのような思いをさせてくれるエッセイである。

(畿央大学教育学部長 白石 裕)

優秀賞

「パジャマとユニホーム」

門栗 優香さん(兵庫県立柏原高等学校/3年)

平日はパジャマ、休日はユニホーム。私の家の前の少年Y君は、一人の人間だけど二つの心を持っている。 幼い頃から私の弟と大の仲良しのY君は、土曜日になると誰よりも早く弟を呼びに来る。「平日は学校に行かないでパジャマで過ごしているのに休日になったら何で早起きして少年野球に行くんや。」と私はついついY君に言ってしまいそうになる。Y君は、小学四年生の時から不登校になった。それからずっと学校に行かないで野球だけをしている。私はこの現実に腹立たしさを感じていたが最近は疑問に思うようになってきた。「なぜ学校に行けないのかなぁ。野球をしている時は、あんなに生き生きしているのに…。」 Y君にとってのユニホームとパジャマは、Y君の心を表すのではないかとふと思い当たった。Y君は、ユニホームを着ることで生命感に満ち溢れ、輝いた自分に逢える。また、パジャマを着ることで大きな重圧や苦しみが取り除かれる。Y君からユニホームがなくなったら、生きる希望がなくなるに違いない。パジャマがなくなったら、焦燥にかられ不安に押し潰されるに違いない。ユニホームとパジャマ、二つが揃ってY君らしさが表れることに私はやっと気づいた。しかしY君は、ユニホームとパジャマで満足しているとは思わない。きっと心の片隅には“制服”があるだろう。 私は将来、養護教諭になりたいと思っている。今は、Y君の姿を受け入れ、見守ることしかできないけれど、将来は生徒の心と体を支えたい。生徒が自分自身について悩んでいる時には、「あなたは、あなたらしく。」そんな励ましの言葉をかけられる養護教諭に私はなりたい。 今では、Y君がユニホーム姿で弟を迎えに来る度に「楽しんでおいでね。」と私は微笑む。Y君にとって、ユニホームに身を包み大好きな仲間と野球をする時間は、かけがえのない宝物だろうな。 ページトップへ

優秀賞

「祖母の願い」

上岡 彩乃さん(横浜市立ろう特別支援学校高等部/3年)

私が産まれた時、周囲にはあまり歓迎されませんでした。それは初めて産まれた子どもが聴覚障害者だと分かり、ショックを受けたからでした。しかし、祖母だけはいち早く障害を受け止め見守ってくれました。 聴覚に障害がある私は、耳から入って来る情報を全て聞き取ることが出来ません。だから、人とコミュニケーションを図るのがとても苦手です。それでも祖母は私を可愛がってくれました。岐阜県からはるばる顔を見に幾度も訪ねて来ては、おもちゃを買ってくれました。また、上手に言いたいことが表現できない私の代わりに通訳をしてくれました。 しかし、私が二歳の時に食道がんで他界してしまいました。四十代という若さでした。幼い私には、祖母との思い出はほとんどありません。ですが、私が唯一覚えているのが、亡くなる一週間位前に祖母と交わした会話です。危篤だということで「もしかしたらこれが最期になるかも知れない」と家族の誰もが感じていました。幼い私の頭でも、もう会えないかも知れないと理解していました。病室に入ると酸素マスクを付けていました。「大丈夫?治る?」と私が尋ねると、「大丈夫よ。また今度遊ぼうね」と苦しそうな声で答えが返って来ました。これが祖母との最後の会話となり、「また今度」が来ることはありませんでした。 小学生の時に、七回忌で再び岐阜を訪れました。そこで、祖母の私への想いを知ることが出来ました。部屋のあちこちに手話関連の書籍やポスターが当時のまま残されており、手話でたくさん会話したいという気持ちから手話教室にも通い、努力していたそうです。 手話には言葉を手で表現できるという魅力があるということを祖母が教えてくれました。私はこれからも手話を覚え、色々な人に手話を教えたいです。祖母の願いは叶いませんでしたが、見守ってくれると信じています。 ページトップへ

優秀賞

「笑顔のススメ」

櫻井 薫さん(神戸市立葺合高等学校/2年)

ある日、鏡を見てぎょっとした。怖い顔。むすっとして、まるで愛想がない。これが私の顔?最近思うように剣道ができなくて、苛々してた、けど。これはひどい。 なんとかしなきゃ。そう決意した。まずは笑顔。通学中、ずっとニコニコしてみた。白い眼で見られない程度に。駄目だ、すぐに口角が下がってしまう。気が付けば唇をとがらせていた。 どうしてこんなに表情筋が衰えているんだろう。考えてみた。そう言えば最近、あまり笑ってないな。そりゃ友達と喋る時は笑顔だけど、そう賑やかに騒ぐ人達でないから。試しに鏡の前で微笑してみた。げぇ、何だこれ。口が真一文字じゃないか。これは、早急に、対応、しなければ。いつか、ただの目付きの悪いオバサンになる。 常に意識して口角をあげるようになった。バスの中、学校の廊下、商店街。ガラスに映る自分の顔に、笑顔笑顔。洗脳する勢いで念じ続けた。 すると、変化が起こった。クラスメイトがよく話しかけてくれるようになった。部員からは、「櫻井さん、彼氏できた?」なんて。できてないよ、そんなの。そう言っても信じてもらえなかったけど。剣道も上がり調子で、ついには三位をとってしまった。小さな小さな大会だったけど、ものすごく嬉しかった。うーん、なるほどなぁ。「笑う門には福来たる」か。福の神さま、ありがとう。 人は、顔に出ている表情に、感情を合わせようとするらしい。私は実感した。笑顔を作ると、腹の底から楽しいような、ワクワクした気持ちが湧き上がる。街路樹が輝いて見える。少々の嫌なことなら、笑顔で吹き飛ぶ。 もし、あなたが今、そう深刻な悩みはないのに、日常を退屈に感じているなら、ぜひ笑顔でいることをおすすめする。まずは笑ってみよう。きっときっと、良いことがあるはずだから。 ページトップへ

優秀賞

「子どもが学ぶべきこと」

白石 彩さん(大阪府立千里高等学校/3年)

小学校五年生のとき、私のクラスにはいじめがあった。そのことはクラスのみんなが知っていた。ノートや机を汚されたり、無視されている子を見たとき、私は見て見ぬふりをした。自分さえいじめられなければいい、そしていじめに参加しなければそれでいいと思い続けていた。 ある日、担任の先生が放課後みんなで話そうと呼びかけた。先生は塾へ行こうとする生徒たちを必死に引き止めた。そして全員そろった教室で、「人を信じること」について話し始めた。クラスのみんなは、いじめについてではないとわかり、顔を上げた。信頼し合える関係を築くためにできることを、一人ずつ発表した。「人に優しくすること」「いつも一緒にいること」「秘密を教え合うこと」が多く出た。私も同じようなことを答えた。しかし、先生は「じゃあすべきこともしないでただ一緒に毎日遊んだり、何かをおごってくれたり、守るべき秘密を教える子をお前らは信頼するんか。」と言った。違うと思った。私には信頼できる友達なんていないと思った。寂しい気持ちと変わりたいという思いがこみ上げてきて、涙が止まらなくなった。そんな私を見つけた先生が言った。「今の気持ち、みんなに教えて。」私はいじめのことも、見て見ぬふりをしていることも全て言い、もうやめにしたいと話した。次に自分がいじめられるのではないかという気持ちは、いつの間にか消えていた。すると、同じように思っていた子がたくさん出てきた。そのとき私はすごく大切なことを学んだ。 信頼し合える関係を作るためには、自分が本当に思っていることを人に伝えなければ何も始まらない。 その日からいじめはピタリとなくなった。まだ子どもの頃に、あの先生に出会い、そしてクラスにいじめが存在したことは私の行動を大きく変えた。 いじめを無くすことは難しい。だから、子どもが子どものうちに、信頼について学ぶことが大切だ。 ページトップへ

優秀賞

「『命』から学んだこと」

山田 綾香さん(大阪府立富田林高等学校/2年)

その悪夢は突然にやってきた。中学2年生の時、私は何の前ぶれもなくいきなりいじめのターゲットにされた。友達も私がいじめられ始めると、次第に離れていった。また、その頃両親とも上手くいっておらず、ただ苦しいだけの毎日をすごしていた。無限にくり返される明日に恐怖さえ抱いていた。そんな時の中で私は自然と「死」を考えるようになった。 「死ねたら楽なのに」が私の口癖だった。 そんな時だった。我が家に新しい命が誕生したのは。 保育器の中ですやすやと眠る弟を見た時、私は改めて命の尊さを感じた。あんなに小さな体でも一生懸命自分の力で呼吸し、生きようとしている。それは当然のことであるが、何だか大きな奇跡を目のあたりにした気がした。 母と弟が入院する病院を出たあと、私は自分の胸にそっと手をあててみた。「ドク…ドク…」と一定のリズムが感じられた。両親からもらった命は、私が生まれてから片時も休まず動き続けている。その当然の事実を実感した時、これまでの自分が少し恥ずかしくなった。私は大きな大きな奇跡を自分の手で終わらせてしまうかもしれなかった。一生懸命繋いできたかけがえのない奇跡を。 『もっと胸を張って生きられる人になろう』 あの日からそれが私の目標になった。 あれから2年半、どれだけ目標に近づけているかは分からない。だけどあの日以来私は「死」を一切考えなくなった。高校に入学するといじめもなくなり、今はとても楽しい毎日をすごしている。あの時命の尊さを教えてくれた弟も2歳半をすぎ、会話ができるようになった。もう少し弟が大きくなって同じような壁にぶちあたったら、今度は私が教えてあげようと思っている。 「君は奇跡の中生まれ奇跡の中を生きているんだ」と。 ページトップへ

佳作

「味噌汁と母」

池本 早希さん(静岡県立気賀高等学校/3年)

【味噌汁】野菜などの実を入れて煮た汁に、味噌をとかした食べ物。一般的な家庭料理。 今朝だって食卓に座れば、温かいご飯と味噌汁が用意されていた。 私が小学校五年生の時、母がうつになった。原因は分からなかった。多分、祖父が死んだショックと、その対応に追われた為の過労と睡眠不足だったと思う。いつも明るくて笑顔が可愛かった母はいなくなった。幼かった私には何も分からなかったが、それでも、ずっと泣いている母を見ているのはつらかった。母は何もできなくなった。母の温かいご飯は食べられなくなった。それどころか、母にご飯を食べさせることさえ苦労していた。いつになったら母が治るのか、毎日不安で仕方なかった。 母は病院に通うようになり、だんだんと元気を取り戻していった。ぎこちなく「おかえり」と言ってくれるだけでも嬉しかった。祖父が死んで2週間たった日の朝、母は初めて料理を作ってくれた。それが味噌汁だった。今思えば、当時の私は味噌汁があまり好きではなかったが、それでも温かく湯気をたてるその料理がとても美味しく感じられたことを覚えている。普段は言わないのに、母に「美味しいよ」とたくさん言った。何より母が料理を作ってくれたことがとても嬉しかった。母は少しだけ笑ってくれた。私は味噌汁が好きになった。 今、母は元気になって、毎日笑顔で、毎日美味しい料理を作ってくれる。私は時々、母がうつであったことを忘れそうになってしまう。そして時々、昔を思い出す。そのたびに、今の母がいてくれることに感謝する。母がうつになったことで、私は母を大切に思うことができた。 今朝も食卓に座れば、温かいご飯と味噌汁が用意されている。普段通りのこの光景に、たまには母に「いつもありがとう」の言葉を添えたいと思う。 ページトップへ

佳作

「二つの毛玉」

一條 香澄さん(宮城県・古川学園高等学校/2年)

私の家には大きなすももの木がある。春には白色の花を咲かせ、夏には甘酸っぱい実をつける。初秋になると自然の恵みに感謝し、伸びすぎた枝を剪定することが我が家の習慣であった。 あの日も、父さんが脚立に乗り枝にハサミをあてていた。切り落とされたすものの残り香が地面いっぱいに広がり、風通しの良くなった枝と枝の間から空の青が見えるようになっていった。 だが父さんはある一角だけ何も手を施さなかった。 「ハトと目が合った」 と父さんは笑って言った。私も脚立によじのぼった。すると二つの毛玉が見えた。「ああ二羽もいる」、私はすぐに脚立から降りて木を見あげた。剪定前の枝々が、あの小さな命を守っているように見えた。 忙しさもあって急ぎ足で季節はめぐり、すももの木は白い雪をかぶった。いつのまにか空っぽになった鳥の巣を見かけて以来、私はあの小さな毛玉を忘れていった。 そして、また春がこの庭を訪れたときだった。 ある二羽のハトもこの庭を訪れていたのだ。いつもなら何とも思わないハト達を、私達は見つけたとたんにじっと見つめた。 あきらかに成鳥ではない二つの毛玉は、それぞれ拙い足どりで庭を歩き回っていた。よたよたと歩きつつ、互いを気にしあって、離れないようにしていた。仲のいい毛玉達を見て、「あのハトの子供だ」と私達は思った。声には出さなかったけれど、きっと皆そう思った。 「帰ってきてくれたんだね」 おばあちゃんの言葉に私はうなずいた。 少しだけ大きくなって帰ってきた兄弟を見て、またあのすももの木で新しい命が生まれるのかもしれないと、私は思った。 きっとあのすももの木はハトの幸せの故郷なのだ。 ページトップへ

佳作

「手の温もり」

今西 杏奈さん(奈良県・橿原学院高等学校/3年)

十四歳の秋、ガンで祖母を亡くし、その三年後に祖父をもガンで亡くした。そして今年、母に乳ガンが見つかった。 祖母は病院で亡くなった。私が駆けつけた時には、ほぼ意識がなく、呼び掛けても返事は返ってこなかった。伯父に「手を握ってやれ。」と言われ、握ったその手は、氷のように冷えていた。何度握っても自分の体温が奪われていくばかり。そして祖母の心臓が止まった時、私は人が死んでいく姿を初めて目にしたのだった。祖父の時も同じで、手を握っても温もりはなく、芯から冷えきっていた。 そして母。幸いにも早期発見だったため、三時間程の手術で済んだ。手術後、手術室から出てきた母は麻酔で眠っていた。手術は成功したと担当の先生から聞いていたので、麻酔で眠っているだけだと分かっていたのだが、怖かった。弱っているように見えたからだ。病室に移され、うつろながらも意識を取り戻した母が、しばらくして「寒いから手握って。」と言った。その時、祖父母が亡くなった時の記憶が私を襲った。あの冷たかった手のことを。おそるおそる、言われた通りに母の手を握った。母の手は、祖父母の時と同じように冷たかった。でも今回は違った。母の手に少しずつ、温もりが戻っていった。病院で誰かの手を握るのは三度目だったが、手が温もりを取り戻したのは初めてだった。母は生きている。ちゃんと生きている。そんなふうに安心したためか、涙がこぼれ落ちそうになったことを覚えている。 看護師さんによると、母の手の冷たさの原因は、手術室が冷えていたからだと言う。そう聞いた時、気が抜けたように笑ってしまった。母は今も入院中だが、退院した時には、多くの手助けをしようと心に決めている。不安な時も怖い時も、熱いと言われるくらいずっと、手を握ってあげよう。温もりを取り戻した大切な母の手を。 ページトップへ

佳作

「夢をあきらめるな!」

末村 千夏さん(富山県立富山いずみ高等学校/2年)

本当の「教育」とは何だろうか。 衝撃の事実を知った。我が家は「大学は自分のお金で行く」という決まりだ。私が中学3年生の時兄は私立大学に行くと決断。大学卒業後は、奨学金で受けた約一千万円を二十年間働いて返さなければならない。その事実を知った時、そんなことまでして大学に行く必要があるのか、と心底思った。それなら高卒で働いた方がよっぽどましだ!と本気で思った。そして“大学”“お金”“現実”というものに、絶望した。それから私は夢を見失ってしまった。 高校2年生になって担任と進路の話をした。高卒で就職すると言ったら、こう言われた。「その進路選択、消去法じゃん。」ぐさりときた。大学に行くためには膨大なお金がいるから就職しよう、という私の気持ちを見抜かれていた。 「GTO」というドラマに、貧しくて大学に行けず夢をあきらめている少年が出てくる。その少年に夢を追う楽しさやすばらしさを、体をはって教える先生がいた。これを見た時、素直にいいなぁと思った。先生が生徒に本気でぶつかってきて、一歩踏み出す勇気や元気を与えたら、生徒は救われると思う。 私は「消去法」という言葉とこのドラマを見て、夢をあきらめるのはもったいないと思った。本心は「進学したい」ってことを気づかせてもらった。 本当の「教育」とは、子供たちに夢を追い続ける力を与えることではないだろうか。それは、身近な大人が夢を追う姿を子供たちに見せることであったり、子供たちの夢を支える姿勢を持つことで叶えられるだろう。一般常識や社会のルールを教えるのは当然のことだ。その当然の上にある、「本当の教育」というものを私たちは考えていくべきだ。子供たちの未来のために。 ページトップへ

佳作

「『学校』の存在」

仲田 美咲さん(京都府立鳥羽高等学校/3年)

私の部屋の窓から外を眺めると、小さな小学校が見える。私の母校だ。2年前、小学校統合のために閉校。そして、もうじき取り壊されることが決まった。 風邪で学校を休んだ日、小学校から聞こえてくる音に私は元気をもらっていた。チャイムの音、子どもたちの遊ぶ声、放送の音……。卒業してからも小学校は私の生活の中に組み込まれていた。取り壊しが決まったと聞かされたのは昨日だ。「7月1日に最後の校舎公開がある。友達と行っておかないか。」と。小学校の頃の友達は今でもたまに顔を合わせている。小規模で、入学してから6年間ずっと1学年20人前後。だからこそここまで仲良くなれたのかも知れない。そう考えると、あの小さな小学校がとてつもなく大きな存在に思える。実際、何十年も小学校として働き続けていたのだから、私の住む地域にとって重要な存在であることは確かだ。地域の象徴とも言える小学校が取り壊されるということで、名残りを惜しむ声も多い。 しかし、ただ取り壊されるのではなく、統合してできた新しい小学校のためのグラウンドや学習施設に建て直されるらしい。それがせめてもの救いだ。子どもがいなくなって寂しそうに佇んでいるあの校舎も、生まれ変わることでまた地域の人々の憩いの場となれるだろうか。今は寂しさ7割、期待3割といったところだ。 地域の繋がりを支える学校は、少子化に伴い年々減少している。小規模の学校が統合し、大規模な学校ができる。生徒数が少ないというのは悪いことなのだろうか。1学区分が広がる一方で、元来の地域と子どもたちとの繋がりは薄れてしまわないだろうか。私は私の母校が好きだ。狭い学区ではあったが、人との繋がりが濃いこの地域が好きだ。今後もこの地域の良さが変わらずにあり続けることを祈っている。 「ありがとう、六条院小学校。」 ページトップへ

佳作

「いのちが語る」

原野 瑞希さん(京都府立嵯峨野高等学校/1年)

九十四歳、私の曽祖父の年齢だ。私の曽祖父、「徳ちゃん」の体調が悪く、今年の夏私は徳ちゃんのいる福岡へ向かった。福岡へ進む新幹線の中で私の頭の中をかけめぐっていたのは四年前の曽祖母が亡くなった時の事だった。 人が死ぬというのはこんなにも当たり前の事なのだと感じたあの日のことは、細部までよく覚えている。とても苦しかった。心なしか急ぎ足で徳ちゃんの家に向かい、いつもより大きな声で「帰ってきたよ。じいちゃーん。」と言った。私の声が徳ちゃん家の古い木造の建物に十分染み込んだ後、去年よりもやせた徳ちゃんが部屋から出てきた。その後徳ちゃんと色々な話をした。学校の事、友人の事、そして将来についての話になった。私はまだ将来の夢はぼんやりとしか描けていない。それを伝えると徳ちゃんは夢をみることについて教えてくれたのだ。 「夢をみるというのは、心に強く思い続けるという事だ。毎日毎日思い続け、夜寝る時には夢として自分の頭の中に現れるくらいに。それが本当の夢をみたという事だ。」 そう言って笑った。 私は徳ちゃんのこの言葉が忘れられない。勉強、学ぶことはこの世で最も大切だと言う徳ちゃんは学問こそその夢をかなえるものだとも言った。私も含め徳ちゃんの周囲の人、そして徳ちゃん自身も徳ちゃんが新しい一年をむかえ続けている事、年を重ね続けている事は一種の奇跡だと思っている。徳ちゃんは命がけの毎日を送りながら、私達に奇跡を与えている。 「いのち」という言葉はとても重く感じる。毎日「いのち」について考えるというのは難しい。私にはできないだろう。だが毎日一生懸命に一日を重ねる徳ちゃんの様な方がいることは感じられる。私は徳ちゃんに一日でも長く生きてほしい。私が徳ちゃんから受けた言葉を他の誰かへ伝える姿を見てほしい。私は徳ちゃんのように、「いのち」を感じさせる生き方をしたい。「いのち」はそこに存在するだけで人を感動させるのだと私は気付いた。 ページトップへ

佳作

「私には死ぬ権利まだないな…」

堀野 彩湖さん(京都府・京都産業大学附属高等学校/3年)

死にたい…。どこまで本気だったかは分からないが人生で初めてそう思った。インターネットで楽な死に方を調べてみたり…。今思えば本当にバカだったと思う。 そんな時、ある1冊の本に出会った。「あなたの夢はなんですか?私の夢は大人になるまで生きることです」という本だ。小さい子どもたちが、生きる為に足の先から頭のてっぺんまで真っ黒に汚して血だらけになりながら、ゴミを拾っているのだ。そんな子どもたちの夢は「一度でいいからお腹いっぱいになるまでごはんを食べてみたい」「長い鉛筆を持って勉強したい」「大人になるまで生きたい」日本に住んでいる私たちにとっては当たり前のことばかり。 生きる為にこんなにも一生懸命働いて、それでも生きていけない子どもたちが世界には数え切れないほどいるのに、一瞬でも自ら命を絶つことを考えた自分が恥ずかしく思えた。そして私は今まで何をしてきたのだろう。こんなにも豊かな国に生まれたのに、何をするにも中途半端で、真剣に生きたことなんて一度もない。そんな自分に腹が立った。 今年の2月3日、祖母は天国に逝った。祖母のお葬式の時、全国から沢山の人が来て、みんな泣きながら「ありがとうございました」と何度も何度も言っていた。私がもし今死んだら、泣いてくれる人はいても「ありがとう」って言ってくれる人はいるだろうか? 今の私には死ぬ権利なんてないな。この本の子どもたちのように、もっと一生懸命生きてから死のう。私が死んだ時、みんなから「ありがとう」って言ってもらえるような人生を送ろう。生きることが嫌になるくらい辛くてしんどかったけど、「もっと一生懸命生きなあかん!」って気付かせてくれたこの本の子どもたちに感謝。 ページトップへ

佳作

「私への素敵なプレゼント」

山﨑 菜摘さん(京都府立鳥羽高等学校/3年)

私の真ん丸とした目は、お母さん似。かわいくない団子鼻は、お父さん似。ぽてっとした唇は、おばあちゃん似。立派な福耳は、おじいちゃん似。笑いのツボは、お兄ちゃん似。私は私だけど、私じゃない。私という人は一人だけれど、一つ一つのパーツは、私だけのものじゃない気がする。 昔、お母さんとケンカをした。「こんな目に、なりたくなかった。」「こんな癖毛も嫌。」「全部お母さんにソックリだから。」本当は、こんなこと言うつもりはなかった。イライラして、突発的に出てしまった。お母さんは、少し怒ったように言った。「ごめん……。」と。でも、本当は悲しくて、寂しかったと思う。悲しい時、寂しい時、辛い時、泣きたくなる時に怒るのは、私と同じだから。本当は、すぐに「ウソだよ。」と言ってあげたかった。「お母さんと似ているの嬉しいよ。」と言ってあげたかった。でも、その時の私はまだまだ子供で、怒ったふりをして家を飛び出した。 今、大人になって、やっと分かった。お母さんからもらったこの目も、お父さんからもらったこの鼻も、おばあちゃんからもらったこの唇も、おじいちゃんからもらったこの耳も、お兄ちゃんからもらったこの笑いのツボも、全部全部私への素敵なプレゼントなんだと。そう思うと、今まで大嫌いだったこの顔も、ちょっと好きになることが出来た気がする。「私は一人じゃないんだ。」「みんなが側に居て、守ってくれてるんだ。」って心強くもなった気がする。 理解するまで、時間がかかってしまったけれど、その分感謝の気持ちをたくさん知ることが出来た。今日帰ったらお母さんに言おうと思う。 「私とお母さん、他に似てるところ、あるのかな?」 ページトップへ