脳卒中後失行症における感覚−運動統合の障害と保持された明示的行為主体感の乖離
PRESS RELEASE 2025.6.20
脳卒中後にみられる四肢失行は,運動麻痺や感覚障害がないにもかかわらず,意図的な行為が困難になる高次脳機能障害の一つです.この障害の背景の一部には,運動と感覚の統合の不具合,すなわち「感覚−運動統合」の破綻があるとされていますが,それがどのように「自分が自分の行為を引き起こしている」という感覚(=行為主体感,Sense of Agency: SoA)に影響するかは不明でした.畿央大学大学院の信迫悟志 教授,森岡周 教授らは,嶋田総太郎 教授(明治大学),前田貴記 講師(慶應義塾大学)らと共同で,左半球脳卒中患者を対象に,「感覚−感覚統合」および「感覚−運動統合」の時間的な処理幅(=時間窓)と,明示的なSoAの時間窓を比較する実験を実施しました.その結果,失行を有する患者では「感覚−運動統合」の時間窓が著しく歪んでいる(=遅延検出が困難)一方で,明示的なSoAの時間窓は保持されていることが示されました.この研究成果は,Frontiers in Human Neuroscience誌(Distorted time window for sensorimotor integration and preserved time window for sense of agency in patients with post-stroke limb apraxia)に掲載されています.
本研究のポイント
■失行症を有する患者では,「自己運動」と「視覚フィードバック」との時間的一致/不一致を検出する能力(=感覚−運動統合の時間窓)が著しく歪んでいた.
■一方で,「受動運動」と「視覚フィードバック」との時間的一致/不一致を検出する能力(=感覚−感覚統合の時間窓)と「自分の行為によってその結果が生じた」と明示的に感じられる時間幅(=明示的SoAの時間窓)は保持されていた.
■感覚−運動統合の時間窓の歪みは失行の重症度と有意に相関していたが,感覚−感覚統合の時間窓や明示的SoAの時間窓にはそのような相関は認められなかった.
■感覚−運動統合の破綻とSoAの保持という乖離は,失行患者において高次の認知的補償機構(メタ認知や概念的推論)が働いている可能性を示唆する.
研究概要
脳卒中後にみられる失行症は,運動麻痺や感覚障害がないにもかかわらず,日常生活上の様々な意図的な動作(ジェスチャー,パントマイム,模倣,道具使用)が困難となる高次脳機能障害です.その背景には,自己の運動と感覚的な結果との統合(感覚−運動統合)の障害があるとされますが,それが「自分の行為によって結果が生じた」と感じる意識経験(SoA)にどのような影響を及ぼすかは明らかではありませんでした.
本研究では,左半球脳卒中後の患者を対象に,感覚−感覚統合,感覚−運動統合,および明示的なSoAの時間窓を定量的に測定する2つの心理物理課題を実施し,その関連性を検討しました.その結果,感覚−運動統合にのみ障害がみられた一方で,SoAの時間窓は保たれており,SoAにおける高次認知的補償機構の存在が示唆されました.
研究内容
本研究では,左半球脳卒中患者20名(失行群9名,非失行群11名)を対象に,2つの心理物理課題を用いて,感覚-感覚/感覚-運動統合と明示的SoAの時間窓を比較検討しました.失行の有無はApraxia screen of TULIA (AST)により評価されました.
遅延検出課題:
この課題では,参加者には,左示指の受動運動および能動運動に対するその映像フィードバックの遅延を検出してもらいました.映像遅延は0〜600msまでの7段階(100ms刻み)で設定され,各条件下で遅延の有無を強制選択で回答してもらいました(図1).
その結果,失行群では能動運動に対する視覚フィードバックの遅延を検出する感覚−運動統合の時間窓(能動-DDT)が有意に延長しており(遅延検出が困難),その判断の明瞭さ(能動-steepness)も緩やかであることが示されました.一方で,受動運動に対する視覚フィードバックの遅延を検出する感覚−感覚統合の時間窓(受動-DDT)とその判断の明瞭さ(受動-steepness)には群間差が認められませんでした(図3, 図4).
図1. 遅延検出課題
明示的SoA課題:
この課題では,参加者のボタン押しによって,画面上の正方形の図形(□)がジャンプします.ただし,実際にはボタンを押してから□がジャンプするまでに,0〜1000ミリ秒の間で設定された11(100ms刻み)遅延がランダムに挿入されます.各試行の後,参加者は「自分のボタン押しによって□がジャンプしたと感じたかどうか」について,“はい/いいえ”で主観的に回答します.この回答をもとに,どの程度の時間的遅延まで「自分のボタン押しが□ジャンプの原因である」と感じられるか,すなわちSoAが保たれる時間幅(=SoAの時間窓)を定量的に評価しました(図2).
その結果,失行群と非失行群の間で,SoAの時間窓(PSE)や判断の明瞭さ(SoA-steepness)に有意差は認められず,明示的なSoAは保持されていることが示されました(図3, 図4).
図2. 明示的SoA課題
※Keio Method: Maeda T. Method and device for diagnosing schizophrenia. International Application No.PCT/JP2016/087182. Japanese Patent No.6560765, 2019.
図3. 遅延検出確率曲線と明示的SoA判断曲線
図4. 群内・群間比較結果
本研究の臨床的意義および今後の展開
本研究は,脳卒中後失行症を呈した患者において,感覚−運動統合に明らかな障害がある一方で,明示的なSoAは保持されているという乖離を,初めて実証的に示しました.この結果は,SoAが単一の過程ではなく,低次の感覚−運動レベル(予測誤差の検出など)から高次の認知的判断レベル(自己帰属の判断)までの階層的なプロセスで構成されているという近年の理論枠組みを支持するものです.とりわけ,低次レベルに障害があっても高次の判断が保持されうるという点は,SoAの可塑性や補償のあり方を理解するうえで重要な示唆を与えます.本研究は,失行という病態を通じて,ヒトにおけるSoAの生成メカニズムをより深く理解するための貴重な手がかりを提供するものです.
論文情報
Nobusako S, Ishibashi R, Maeda T, Shimada S and Morioka S.
Front. Hum. Neurosci. 2025.
問い合わせ先
畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター
畿央大学大学院健康科学研究科
教授 信迫悟志
Tel: 0745-54-1601
Fax: 0745-54-1600
E-mail: s.nobusako@kio.ac.jp