『ピアジェ・思考の誕生』が開くリハビリテーションの新しい問い

先日出版された森岡周教授(ニューロリハビリテーション研究センター長)の新刊『ピアジェ・思考の誕生 —— ニューロサイエンスと哲学から読み直すリハビリテーションの新しい地平 —— 』について、私(博士後期課程 三枝信吾)が読み進める中で考えたことをブログ記事としてまとめました。

 

なお、こちらの大学ブログでは、森岡教授ご自身が本書を紹介しています。
【新刊紹介】生成AI時代にあらためて問う「人間の知性」 —— ピアジェをハブに、時空を超えた知の対話へ ——

所感

本著作は、ジャン・ピアジェをはじめとして、発達心理学、教育学、神経科学、哲学など、多領域の研究者の思考が合流する書である。これは、リハビリテーションという営みが、それだけ多様な学問領域との交差を必要とする奥深い分野であることを示すと同時に、リハビリテーションにおいて自身に到来し得たであろう理論的・実践的袋小路に対して、著者自身が長年にわたり、他者との対話や交流を重ねながら、幾度となくその突破を試みてきた歴史の痕跡でもあるように思われる。また本著作は、予測符号化、身体性(エナクティブアプローチ)、物語性、中動態、さらには自由や東洋思想といった文脈にまでリハビリテーションを展開し、これまでのリハビリテーションを再計しながら、これからのリハビリテーションとの地平融合を目指している。

 

私は、知覚や行為、そして対象者への眼差しは、予測に関する知識が大量に蓄積される以前の乳児期、あるいは臨床経験の浅い一年目の頃のほうが、より「真」に近いのではないかと考えることがある。しかし実際には、私たちは物事をありのままに見ているのではなく、常に自分自身に則して世界を見ている。すなわち、過去の経験が浸透したかたちで未来を予期する予測によって形作られ、つねに何らかの仕方で自分自身を世界へと投影している。本書では、こうした知覚と行為の基盤として、生きられた身体が言及される。身体は対象としての世界を前反省的に私に現前させる透明な媒体として機能し、それ自体(身体)が主題化されないことによって、別のものを主題化する。この身体と環境の関係、さらにはそこに伴う実存の問題を通して、意味の復権が説かれているように思われる。一方で、対象者の物語を「前」と「後」に分ける軸が、脳卒中といった出来事に置かれ、将来の回復を実在した過去に近似した未来として思い描くことが少なくないようである。私自身、療法士であることがゆえに身体機能や歩行能力といった観点から改善を評価することに重きを置いてきたが、果たして実践されたアプローチは、対象者の物語の更新と紐づいていたのだろうかという疑問が生じた。非力ではあるものの、物語的自己同一性といった言葉が示すように、しばしば別の軸や視点から筋を創作し直すことが人間には可能であるため、その場に居合わせ、その過程を見つけられる・立ち会うことのできる療法士でありたいと感じた。また、対象者は自己の意思で行動しつつも、自ら創り出したのではない非意志的なもの―身体、他者、社会、必然性―からの影響を受けている。対象者から「プロではないのであなたに従う」と言われることがあるが、その言葉をそのまま引き受けてしまえば、対象者の本来性(存在を維持しようとする方向性を持った力)を見落とすことになりかねず、その結果として中動態的な自由の可能性を閉ざしてしまうのではないかという危惧が生じた。

 

本書を読み進めるにつれ、私は、リハビリテーションというパラダイム自体が自明のものとなり、知らず知らずのうちに私自身の世界の見え方を限定していた可能性について考えさせられ、改めて問い直す契機を与えられたと感じた。最後に、本記事は、森岡周教授の手元を離れて自立したテキストと、私が交差するなかで生じた、一つの地平融合である。そこには当然ながら解釈の相違や余地が多分に含まれており、本書の射程を尽くすものではない。しかし、このように本書と向き合い、その思考の広がりを自らの実践や経験と重ね合わせながら記事として言葉にする機会を得られたことは、療法士として、また一読者として大変光栄なことである。

 

畿央大学大学院 健康科学研究科

博士後期課程2年 三枝信吾