創業者の心

冬木智子の心

はじめに

私は今、はっきりと目を見開いて明るい空間をみつめています。しかし視界に映像は入ってきません。心の中の目で、限りなくひろがる若い人たちの一人ひとりをみつめ、語りかけているからです。私の一語一語は木々の若葉をぬらし、滴となって土壌にしみ入るように思われます。これが愛というものなのでしょうか。
そのつきぬ思いを、折々に記してまいりました。これは私の生きた証であり、これからを生きる方に受け取って頂きたい私の心でもあります。

「ほほえみ」によせて

「ほほえみ」、何という静かで美しく、心温まる言葉でしょう。

考えてみますと笑いには多くの種類があります。嘲笑、冷笑、苦笑というような厭なものから、泣き笑い、思い出し笑い等ユーモラスなものなど。従って笑いが作る顔の表情も様々で、一人の顔でありながら実に色々に変化するものです。その中で「ほほえみ」こそは、ほのかな詩情をたたえた、その人の美しい心そのものの笑いの表情ではないでしょうか。

「目は心の窓」と申します。美しい心、幸せな感情は、美しい瞳に必ずやどっているものです。そしてほほえみとはその心の目で笑う事です。ほんの少し口許をほころばせ、目に情感をこめて笑った時ほほえみの表情が自然に生まれます。美しい心が目からこぼれているような、そのような状態です。不思議な事にこのような表情をしてみますと、自分の心にほのかな優しさがよみがえってきます。ほほえみは自分自身の心を慰め、楽しませてくれるものなのです。

或る時、生徒の皆さんの一人がこんな事を私に申しました。「駅から一生懸命学校を目指して歩いてきました。そしてやっと校舎の見える坂下にたどりついた時、明るく美しい校舎の窓が、私に早くおいでとほほえんでいるのです」と。そう言ったその人の瞳は、本当に美しくほほえんでいました。

心にほほえみをたたえた人は、物言わぬ建物にも、又自然の草や木、山や空、動物達にもほほえみを感じとる事が出来るのです。それは即ち深い愛情があるからだと思います。学校を愛する心、自然を愛する心があるからです。ひそやかな、ただ一筋の愛をたたえた「ほほえみ」を私はいつも忘れたくないと思います。
この冊子も、そんな願いをこめて作られるのではないでしょうか。どうか皆さんのこの文集が全校のみなさんを美しいほほえみで包んで下さるように祈って止みません。

高校機関誌ほほえみ 昭和40年2月


私にできるだけのことを

夏休み中の生徒記録「せいちく」の作製に当たり、編集される先生の御要望によって私の好きな格言や言葉を二十余り選び出した。その中でも特に私の信条にぴったりの言葉について述べてみたいと思う。

それは「Als ich kann」。フランスの文豪ロマンローランの言葉である。訳して『私にできるだけのことを』という意味である。私はこの言葉を何辺も繰り返して、本当にそうだ、と叫びたくなるくらいの感銘をうけた。

思えば二十数年前、女学校の教え子にせがまれて自室を教室にした事から、私の人生は思いもかけぬ方向に歩み出してしまった。生徒を通じての心のふれ合い、殊に創り出す喜びは例え様もない生甲斐となって、私をもはや抜き差しならぬ流れに誘いこんでしまったのだ。敗戦の苦しい生活の中でも、私に与えられた古い布は新しいドレスとなって生まれ変わってゆく。それはいきいきとした毎日であった。私は自分に目覚め、少しずつ自分の力を信じる様になっていった。桜井の地にまず小さい土地を買い校舎を建てる事が出来た。私は全身の力を注がざるを得なくなった。以来十八年間、来る日も来る日も私は自分の心と体で出来るだけの努力をしたつもりである。二十年近くの歳月はまたたく間に過ぎ去って行った。

そして今からちょうど五年前の初夏の頃、自分でも計り知れぬ事が起こったそれは鳥見山を背景とする広々とした高台に女子高校を創設することであった。今にして思えば随分大それた事ではあった。しかし私の心はこの土地を見た途端、動いてしまっていた。その日からの苦しい道は、とても今ここに表す余裕はない。ただ私はここでも私に出来る限りの力をつくした。この上もない悲しい出来事にも耐えて、二年後には女子短大をも開学する事が出来た。私は自分が学校を今、作らねばならぬと信じてやっただけなのである。

ああ、しかし世の中には自分に出来る事でもしないでいる人が何と多い事か。そして出来ない事をしたいと思って無理をしている人がもっと多いのではないだろうか。

私達の周囲には、立派な言葉や又古くから今日に至るまでいいつがれてきた数々の名言がある。これらは、かみしればかみしめる程、深い味わいをもっている。しかしこの言葉にハッとする程の感銘やひらめきを感じることの出来る人は、その人自身、既にその道をきわめつつある人ではないだろうか。或いは真に人生を見つめ、悩み、又、はるかな理想を求めて努力している人ではないだろうか。「求めよ、さらば開かれん」。反省のないものに悩みなく、悩みなきものにどうして新しい真の道が開かれようか。私達は常に手近かなものから精一杯自分に出来るだけの事をしよう。そして自分の新しい道を切り開いて、少しでも社会に役立つ仕事をしてゆこう。

「Als ich kann」。私は体が立たなくなる日迄、『私にできるだけのことを』してみたい。

高校機関誌ほほえみ 昭和43年10月


見る、考える、行う

「よく見れば なづな花咲く 垣根かな」(芭蕉)

通いなれた通学路、見なれた我が家のたたずまい、余りに見馴れているせいか、映像として意識しないでいることが多いのではないでしょうか。よく見ると庭の片隅にも、石垣のすき間にも可愛いい花が咲いています。しっかり生きているのです。しかしよく見ようとする心がなければ見えないのと同じであり、聞く心がなければ折角の音も耳に入らないのと同様であります。

次に大切なことは「これは何故だろう」とか「どうすれば…」と考えてみることです。物事には必ず原因や動機があり、その起因には意志なり、力が作用している筈です。考えるゆとりを持ってそのよりどころを分析したり、理性ある態度を取ることが必要です。思考のないところに正確な判断や結論は得られないと思います。その上で実行が伴ってくるのです。日常生活においてもよく心の目をひらいて物を見つめ、感じとり、更に考察、判断し、動き出したならば恐らく問題は少なくなるのではないでしょうか。ところが最近の社会の風潮を見るとその逆の現象が出ているように思えてなりません。よく見ることもなく、よく考えもせず、即ち動物的、衝動的に行動することが多くなっています。その結果、みにくい争いや、互いに心身を傷つけ合う恐ろしい事態を引き起こす傾向になっているように考えられるのであります。

私達は人間としてこの世に生を受けた以上、健全で住みよい社会を構成してゆく上において、何らかの役割を果たさねばなりません。一人では社会生活が成立しないのですから、自己本位にのみ生きることは許されないでありましょう。

本学も創立以来十八年の歴史を築いて今日に至っています。その間、決して平坦な道ばかりであったとは言えません。しかし年毎に全国各地より新入生を迎え、有為な女性を送り出すことを目標とし、一層充実した学園の中で、本学ならではの「大和し美わし」と詠まれた日本人の心のふるさとの真髄を体得して頂くべく、日々努力を重ねております。

鳥見山の緑の木々に風が吹き、その風の色が見えるような、そして万葉人の息吹を肌で感じられるような深い知性と心豊かな女性、そして確かな実践力のある女性を育成することを願い、あいさつとします。

短期大学学報 昭和58年7月


幸せとは何だろう

電車を乗りつぎ、橿原神宮駅に下車しました。その日は短大付属幼稚園の遠足でした。神宮の森の木々は、瑞々しい緑がまさにしたたるばかりに輝いて見えました。まだ赤ちゃん気の抜けきらないまるまるした足や手を一生懸命動かして並んでゆく後姿は、まるでリュックサックが歩いているような光景でした。

空は抜けるように澄んで、五月の日射しが子どもたちにさわやかにふりそそいでいます。私は胸に込み上げてくるような感動を覚え、「まあ、本当にきれいね」と誰にともなく声を発しました。すると、すかさず下の方から「木の葉っぱね」という可愛いい言葉が返ってきたのです。私は驚いて横をよく見ると、あどけない丸い顔が私を見上げているのです。「幸せってなんだろう」、コマーシャルや歌の文句ではありませんが、私はこんなときをいうのではないかと思ったのです。

「幸せとは風にゆられているものをじっと見ていることです」
「幸せとは小さい花や小さい生き物をふまないことです」
「小さい石を手ですくったり、はだしで砂浜を走ったり、それだけで私はとても幸せです」と世界の子どもたちが書いています。幸せは子どものまわりにいくらでもあるし、自然の前で子どもたちは即座に詩人になることができるのです。

毎年のことながら卒園式には、親も教師もみんな涙を流して別れを惜しむ光景が見られます。練習したとおりに一人ずつ前へ出てきちんと礼をして証書を受けとる姿勢のいじらしさに、園長の私は心の中に熱い涙を流し込むのに苦しいひとときを過ごすのです。ある男の子がその日帰宅して母親に、「卒園式の時、先生もお母さんもみんな泣いていた。僕も悲しくなって涙が出てきた。あの涙きっと神様の涙とちがうか」と不思議そうに言ったとのことです。子どもは痛ければ大声で泣くし、喧嘩に負けるとくやしくて泣くし、自分の思う通りにならない時は攻撃的に愛情を要求して泣き叫ぶことができる存在です。しかし、この園児ははじめて人との別れの悲しさ、淋しさの涙にふれることができたのです。今までに経験したことのない、人を思う愛惜の感情を神様と表現したのでしょう。

相手の心の淋しさのわかる人間が今いかに少なくなってきていることか。飽食の時代といわれて飢餓にあえぐ人の苦しさに遠くなり、物の豊かさの故に手作りの心の温かさにふれることが出来ず、物のありがたさや愛着が忘れられる時代になっていると思います。せっかく「神様の涙」を流した子どもも、自己中心的な人間社会の環境の中でどのような成長過程を辿るのであろうかと思えば心が痛みます。子どもたちの「美しい幸せの芽をこわさないで」とさけぶ声に耳をかたむけ、科学文明にともなう経済成長の進展のかげで、人間が人間を破壊にみちびいてゆく危険をおかしてはならないと思うのです。「幸せってなんだろう」と子どもたちに言わせないために。

短期大学学報 昭和62年7月


慣れのこわさ

昔から、「習うより慣れよ」という言葉がある。物事の初歩的なことはもちろん、多少難しいことであっても通り一遍の習い方よりも大切なことは習熟することである。即ち、何回も繰り返しているうちにしぜんにそのことに慣れてきて、その人自身のものとなり容易にできるようになってしまう。「習い性となる」とも言われている。要するに習ったことを繰り返し行っているうちにそのことをすっかり身につけてその人の性格をも形成してゆくのである。

私たちの日常生活における身近な動作も、幼い頃からの繰り返しによってほとんど個人的にきまっており、同じ目的に対してもそれぞれの方法に違いが生じているから細かく観察すると非常に興味深い。朝の洗面の仕方や順序、入浴の際の洗い方、食事のとり方、着衣の方法など最も基本的なものから、電気をつければ必ず消す、戸を開ければ必ず締める、靴をぬげば必ずそろえる等々、これらは日常繰り返しているうちに習慣となってしまうものばかりである。

「なくて七くせ」といわれるように習慣の中にはその人だけにあって、他から見て多少変わってみえることを「くせ」とよんでいるが、その人のほほえましい持ち味をみとめたことばで他人に迷惑をかけるものではない。

なお、更に精神的な問題まで加味したものに躾というものがある。これは、社会的、人間的な関係を基本にして、相手や物を大切に扱うためのマナーを習い教養を深めることにより、文字の如く身に美しく備えたものである。躾はある面では日本の伝統を背景として形成されたものでもあり、非常に深い意味をもっている。このように正しくよきものが習いとなり、慣れてしまうと、その人と表裏一体となって、はじめは多少抵抗を感じたことも遂には容易となり、生活を楽しく円滑に運ぶ基本となるのである。

最近非常に社会に不安感を与えていることの一つに交通事故の多発がある。とくに若年層の無謀運転の恐ろしい結果が報じられているが、この人たちはハンドルを握れば車は間違いなく走行してくれると思っているのだろうか。自分だけはフルスピードで走っても絶対事故をおこさない熟練者であるかの如く思い込んでいる甘さに驚かざるを得ない。運転の技術は習っても慣れることの本当の意味が分かっていないのである。歩行者にしても「赤信号みんなで渡ればこわくない」の慣れが、一瞬の間に尊い生命にかかわることのこわさに気づいていないのではないだろうか。たとえ最初は悪いことだと気がとがめても、二度三度と繰り返して慣れてしまうと、自然に安心感が助長されてきて自分の行動がつい安易となり、いつかとり返しのつかない悲しい結果をまねくことになるのである。

慣れのこわさのもう一つに、「慣れ慣れしい」ということがあるように思われる。如何なる人間も一人では生きられないのであって、よき人間関係に支えられ、互いに親しみ助け合ってゆかねばならない。しかし如何に心をゆるした仲であっても、たとえ親子、兄弟姉妹、夫婦の間柄でも、もとは個々の人間であることを心得、それなりのけじめが必要不可欠なものなのである。「親しき仲にも礼儀あり」と言われ、相手の心を深く傷つけてかえりみぬ程の慣れ慣れしい態度や言葉づかいによって、遂には大切な愛情や信頼関係にひびが入ったり、また年来のよき友を失うことにもなりかねない。親しい間柄にあっても相手を尊重し、思いやる優しさを自然なかたちで言葉や態度で示すことができれば、すばらしい人と人との交流が維持できると思う。現代の日常生活の中で慣れを身につけることが、いつもよい結果を生み出すとは限らないのである。

家族間の人間関係において、また学校での教師と学生・生徒との間柄において良識あるけじめを身につけ、慣れの重要さを意識することが必要ではないかと考える。そしてよりよき習慣を身につけ、「慣れっこ」にならないために、初心を忘れぬ謙虚さを持ちつつ、日々新しい目で周囲をながめ、自分の行動に責任を持つ心がけを望みたいものである。

短期大学学報 平成2年7月


先送りしない人生

今年こそよい年であることを願って迎えた新年であったが、早々から政界人の汚職とか連続殺人等、耳をふさぎたくなるような報道が続いている。一歩外へ出れば車が列をなしていて、その間を縫って、若者の単車が爆音をたてつつ走り抜けてゆく。不相応と思えるような最高級車に乗った若い男女もよく見受けられる。街には豊富な品物を並べたてた店が軒を連ねていて、昼夜をわかたず人々の出入りで賑わっている。

自分の二十歳代のことを思いおこすと、世の中の変貌は全く恐ろしい程のはげしさである。その頃の私は、新しい希望を抱いて独力で学院を経営しかけた時であった。あらゆる物資が乏しい時代であったので、生徒の教材となる布地を購入するため、わざわざ大阪に通ったものである。帰りにはずっしりと重い荷物を両手に提げて長い街中を歩き通し、当時、大阪市内を走っていた満員の市電に乗り、立ったままその振動に耐えねばならなかった。しかしどんなに苦しくても、いつか自分の力で車に乗れる時がくるまでは決して車には乗らないとひそかに心で誓っていた。

考えてみると、現在は現金で物を購入することがだんだん少なくなってきている。紙一枚でローン契約をして立派な家も建てられるし、新車も購入できる。クレジットカード一枚あれば、手軽に現物を入手出来る世の中となった。欲望がどんどん先回りして満たされ、そのつけが後に廻ってくる 仕組みである。それを承知の上で満足感に浸っている間はよ いが、人間の心の弱さ故に、過剰な欲望や優越感に加速度が ついた結果は、暗い落し穴が口を開けて待っていることを覚 悟すべきではないだろうか。

人生の基本姿勢としては、毎日現金払いをする覚悟で先送 りせず、きっちり決めて過ごしてゆきたいものである。

学業においても、今日はさぼっておいて明日勉強しようと考えてはいけない。まして、学校では出来るだけ遊んでおいて社会に出たら勉強しようなどと思って先送りをしていては、そのつけはどんどん積もって身動きできぬ結果となって返ってくると思う。人生のローンには必ず冷酷な利息がふえてくることを知らなくてはいけない。現在を大切にして今日何が出来るか、自分にとって今一番大切なことは何かを考えて、その時その時できっちり決まりをつける覚悟で過ごしたいと思う。

大きい夢を胸に抱いて、その実現に向かっては自分の実力で勝負する気概と地道な努力を惜しまず前進してゆくべきだと考えている。

学園だより 平成4年2月


深い愛に生かされて

キャンパスを歩くと、学生のみなさんの楽しげな笑い声や会話が、渓谷の清流のせせらぎの音や、小鳥のさえずりの音色のように快く聞こえてきます。しかし、ひとりひとりのみなさんに思いを馳せる時、それぞれに生活の背景があり、何かしら一つは重荷を背負って生きているように思います。ですから、本学の先生方には、その背景をしっかり把握していただき、その思いを受け止めていただくことをお願いしています。そして、このことは学生のみなさんにもお願いしたいことです。

みなさんが全国各地から、この桜井の地に来られて本学で学ばれることは、一期一会の縁(えにし)で結ばれてのことでしょう。この地ですばらしい青春時代を過ごされ、培われた友情は、おそらく一生の宝物となるはずです。そのためには、本音で語りあえる関係を持ちながら、友の痛みを自分のものとし得る感性を失わぬようにしていただきたいのです。人は誰しも、自分一人で生きていけるとは思っていないと思います。ところが疲れが極限になったり、困難が目の前を覆ったりした時には、往往にして傷つけあったりするものです。

その時に思い出していただきたいことは、自分は一人で生きてきたのではなく、多くの人々の支えがあり、目に見えない深い愛によって生きてこられたのだということです。人の深い愛を受け、そのことを知るということは誠に大切なことなのです。ただ、人は悲しいもので、自分に注がれた大きい愛を見落としがちになります。時には厳しく過ちを指摘してくれたことを、素直に受け止めることが大切なことではないでしょうか。

この深い愛によって生かされるものこそ、人の心を思いやり、自分自身を大切にしていくことが出来る人なのです。そしてそのことは、建学の精神である「徳をのばす」「知をみがく」「美をつくる」の実践に心を尽くすことになると思います。

短期大学学報 平成9年7月


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