2011.04.12 

石川裕之著『韓国の才能教育制度』を読む

大学より本年度から現代教育学科にご着任された石川先生の書評の依頼を受けた。石川先生のご専門は比較教育学なので、臨床心理学というアヤシイ学問の住人である私に、正直書けるのかな、という気がしないでもなかったが、本書での「あとがき」にて石川先生が紹介された韓国の言葉である「人福」、つまり「人とよく交わり、交わった人々から助けを受ける福」の精神と、本学にご着任された歓迎の意を込めて書いてみたいと思う。
石川先生の著書.jpg
 
 


 
日本の受験戦争もなかなかなものだと思うが、韓国のそれがもっと苛烈なことは、少なくとも教育関係者は良く知るところだろう。OECD加盟国における教育支出に占める私費負担の大きさは韓国がぶっちぎりの41.2%で第一位であり、二位が日本(33.3%)となっている(ちなみにOECD加盟国平均は15.3%)。大学受験当日、ソウル大学の正門前で多くの親がガムを貼り付ける風景は、韓国の受験戦争の苛烈さを象徴する風物詩の一つだろう。

 
実は今から20年前の中学時代の夏休みに、親類の縁でソウル市内の中産階級のお宅でホームステイする機会があった。そのご家庭の私と同じ世代の子どもたちは、毎日朝から晩まで「トクソシル(直訳すると読書室だが、いわゆる自習室)」にこもって勉強していた(私も少しの観光を除いて、毎日一緒にそこで勉強させられる羽目になった)。まだ中学生なのに、受験直前でもないのに異常ではないかと思ったが、ソウルの子どもは市内にいくつもあるトクソシルのどこかでこうやって勉強するのが普通だと教えられた。なるほど韓国は科挙の時代から勉学に重きを置いてきた民族である。私も最初に教えられたハングルの動詞は「昆布派だ」、ではなく「コンブハダ」=勉強する、だった。
 
ようやく本題、石川先生の博士論文をまとめた本書『韓国の才能教育制度』を読むと、ゴルバチョフがクリミア半島の別荘に閉じ込められ(ちょうど滞在時に大きなニュースになっていて、とても印象に残っている)、私がトクソシルに閉じ込められていた1991年当時の韓国は、その10年程前から始まっていた「才能教育制度」が本格化し、その象徴である「科学高校」が拡充され始めた頃だということがわかる。きっとホームステイ先の子どもたちも、この科学高校に入るために、日夜トクソシルにこもっていたのだろう。
 
こうした才能教育制度は、その前政策であった「平準化」(習熟度別学級の禁止など、徹底した教育機会均等化)制度の問題を補完するものであり、90年代に一気に量的拡大を見せる。しかしこの事態は、当初想定していた制度の限界を露呈し、また1997年のIMFショックによる歴史的危機を迎えるに当たって、グローバリゼーションを視野に入れた新たな制度に転換することになった(その例として、本書では英才教育院の登場や大学早期入学制度等が挙げられている)。そして、本書を読む限り、現代の韓国の教育制度は、前世紀における試行錯誤と比べれば安定した状態にあるようであり、また卒後の進路の高い実績からも、一定の評価をすることができるだろう。特に、競争・選抜・序列化を志向する韓国国民のエネルギーを上手に吸収したこの機能的な制度はこれからグローバリゼーション化していく日本においても様々な点で参考になるのではないか。聞くところによると、かの国では大学における英語による授業は全体の2割以上を占めており、実際韓国の若者の英語熱はすさまじいものがあるという。私も先日自分のスマートフォンの英会話学習アプリを購入したが確かにとてもよくできており愛用している。こういうところでも韓国の教育のエネルギーの強さを感じてしまう。そういえば私のスマートフォンのCPUはサムスン製だ。
 
一方で、臨床心理学の立場としては、どうしてもそうした制度からドロップアウトしてしまうような子どもたちのことを考える。さすが石川先生はそうした視点も持ち合わせており、本書でもこの才能教育制度の課題として、セーフティネットの所在についてまず挙げている。残念ながら、ドロップアウトした子どもたちのフォローは、少なくとも制度としては十分に整備されていないようだ。事実、現代の韓国人青年のメンタルヘルスはかなり厳しい状況にあると言わざるを得ず、韓国における青年のひきこもりは40万人以上いると推定されているし、自殺率については、自殺大国といわれている日本を凌駕し、OECD加盟国中これもまた第一位(10万人中24.3人。なお日本は第三位で19.4人、2008年当時)だ。今年に入ってからも、才能教育制度が始まった当初に開学したKAIST(韓国科学技術院)における在学生の度重なる自殺のニュースが日本ででも報道されていることを思うと、その実態の深刻さを感じてしまう。
 
まさに韓国における教育制度の光と影がそれぞれ顕著に表出されているのが今の状況なのかもしれない。これが10年、20年たって、この今の状況がどのように評価されるのか、今後も石川先生の分析を拝聴できればと思っている。ぜひ新たな人福を互いに積み上げていきたい。

良原誠崇(現代教育学科・臨床心理学)

 

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